昭和2年、松岡俊次(25才)・ちか(18才)は、縁あって結婚しました。
2人は、結婚式の場で、初めて顔を合わせ、ちかは、どの人が、自分の旦那さんだろう?と思っていたといいます。
2人は、俊次の兄がしていた いぶし瓦の製造の仕事を手伝っておりましたが、いじめと言いますか、橋田寿賀子のドラマに出てくるような状況で、肩身の狭く、惨めな思いを続けておりました。
しばらく、つらい状況が続きはしましたが、俊次もちかも、いつかは自分達で商売をしようという気持ちを秘め、昭和3年には茂、昭和5年には茂男、昭和7年には三郎と、3人の男子に恵まれ、日々を必死で過ごしていました。
昭和10年正月、もう瓦を焼くのはやめにしたいという兄の下を離れ、俊次・ちかは、いよいよ自分達で商売を始める決心をしたのです。
そもそも、俊次は、自作農家の三男坊として、のんびり育ち、義務教育終了後、近くの東郷学院をはかばかしくない成績で卒業し、神戸の川崎製鉄に就職しましたが、労働運動に参加して解雇になり、それ以来、瓦を焼く事ひとすじの、まじめで口数の少ない、人の良い人間でした。
それを支える ちかは、勝気で前向き、商売っ気のあるタイプなので、やる気マンマンでしたが、商売を始めるにも、お金も何もありません。
頼れる親は既になく、兄弟も、決して頼れる状況でなかったので、ちかは、1人で、村のお寺の住職さまにお金を貸してほしいと申し出に行くのです。
昭和10年当時、田舎の村に銀行などあるはずもなく、ちかは、今で言うと、銀行へ初めて融資を申し込むようなつもりで、村のお寺の住職さまの所へ行ったのです。
そのお寺は、播州播磨を治める豪族として室町時代まで遡る家系を汲む、由緒正しいお寺で、村の大部分の田畑・山林を所有する大地主でもありました。
ちか、若干26歳、単身お寺へ乗り込みました。
同じ村のお寺だというだけで、普段から信仰厚い訳でも、お寺へ寄り付いていた訳でもなく、どちらかというと、お寺などとは、無関係な人でしたが、お寺は、門前払いする事もなく、ちかを客間に入れてくれました。
緊張と、不安と孤独感で、ちかのその時の印象では、その客間が、30畳くらいあるように、広く思えたと言います。2月に入ったばかりの、寒い日のことです。
老僧を前に、これまた今で言うプレゼンテーションのように、ちかは、これまでの経験、これからの計画とやる気、お金を貸してほしいこと、主人は寝る間も惜しんで瓦を作っているので、この場所にこれない事など、トツトツと、語りました。
聡明な老僧は、じっと、黙って、まだ小娘に見える ちかのいう事に耳を傾けてくれていましたが、ちかの話が終わると、黙って立って、別の部屋へ行ってしまいました。
そして、老僧は穏やかに、ちかに言いました。
「商売初めに、お金は借りたらあきまへん。これから商売を始めたら、お金はなんぼでも要ります。最初から安易に借金を抱えたらあきまへん。そんな大金は、ようお貸ししませんが、商売初めのお祝いとして、これを渡しますから、返さんでよい。がんばりなさい」と。
お金の価値が違うのですが、今に例えると、ちかは300万くらいのお金を貸してくださいとお願いに行って、お祝いだと言って、約10分の1の、30万円相当の大金を出資してもらったのでした。
ガッツに溢れていた ちかは、「決して頂く訳にはいきませんが、必ずお返し致します。商売の信用にかけて一日も早くお返しできるよう励みます。」と言って、大事にお金を抱えました。
結婚後どんなにいじめられても”泣き”の入らなかった勝気な ちかでしたが、帰り道、冷たい風の中、ありがたさと、緊張からの解放で、涙があふれて止まらなかったのでした。
懐にお金を抱えて帰ってきた ちか から、詳細を聞いた俊次は、神妙に、老僧のお言葉を受け止め、肝に銘じました。
自分達は、そのお寺の檀家でもなく、縁もゆかりもないといえばそれまでなのに、借金しては、商売初めの負担になるからと、お祝いだと言ってお金をくれた老僧に、手を合わせながら、誓ったのであります。
自分勝手に思い描いた金額は得られなかったけれど、大きな教訓と共に、拝借したお金で何とか商売をはじめ、一刻もはやく老僧にご恩返しをしよう! そして、自分たち夫婦は、生涯で2度と借金はしない!・・・と。
この思いは、俊次もちかも全く同じで、俊次は、これまで兄の瓦製造の仕事を手伝っていた時の修行・経験から、すぐに、瓦を焼く炉(といっても土を練って作る土窯)の製作準備にかかりました。
ちかは、俊次を手伝い、3人の男の子と格闘しながら、燃料となる松葉、原料粘土の調達に奔走です。
お寺の老僧が祝い金と言って貸してくれたお金は、燃料の松葉を分けて頂く費用として、なくなってしまいましたが、それでも、2人がその気になれば、ガンガン準備は進みます。
そして昭和10年、さくら吹雪の舞う頃、
俊次の築いた土窯から、第1号の製品を、俊次とちか が、頬や鼻についたススをぬぐうのも忘れ、1枚ずつ丁寧に取り出すに至りました。
いぶし瓦を焼くのに、山にある松の葉を乾燥させ、燃やして使っていた時代です。
二人の姿を”松葉”に見立て、大事に瓦を窯から取り出すイメージから、後に、次男の茂男は、法人設立時に松葉を二つ組み合わせた中に"瓦"の文字を入れたデザインを社章と制定しました。
幼い頃 創業期の、両親の姿の記憶でした。
これまで兄の瓦製造の仕事を手伝っていた俊次の、瓦職人としての腕は、悪くはなかったようで、大きな失敗もなく、創業初の瓦から、順調に生産を開始できました。
妻ちかと2人で始めたのですが、すぐに2人、3人と人を雇って仕事を手伝ってもらうようになりました。土窯1基だけでしたので、作った分だけ売れていき、納品に間に合わせるのに、必死でした。
近江商人は、朝星が出ている頃から天秤をかついで仕事を始め、夜星を仰ぎ見ながら帰って天秤を置いたと言われますが、俊次とちかは、雇い人が帰った後も、交代で、食事し、眠りながら、ぶっ通しで、作業を続けていたと言います。
有難い事に、俊次もちかも、健康な体に恵まれ、気力に満ちていまし、3人の息子たちには、いっさいかまってやれませんでしたが、雑草のように、勝手に元気に大きく育っていました。
ちかは、96才で天寿を全うするその間際まで、「瓦屋は、えらい仕事やけど、こんなええ仕事はあらへん。いくら作っておいても、腐らへんし、屋根は必ずある。台風や雨漏りで困っている人には有難いと思うてもらえる!」といって、若い頃、瓦屋をなりわいに出来た事を、感謝していた人です。
台風の後などは、予定外で、遠い所から半日くらい歩いて瓦を買いに来られる人は、大勢おられました。
そんな時は、作っている間に合わず、俊次とちかの住まいの屋根や塀の瓦をはがして、持って帰って頂いていたので、2人の家の屋根は、度々まる裸になっていたそうです。
窯積みをし、火入れ・焼成・いぶし工程を終えると、窯出しまで3日くらい時間が空きます。
その間に、成形したりするのですが、俊次は、積極的に時間をつくっては、自転車で、小野市、三木市、飾磨郡など、片道30kmくらいのところまで、営業活動に出かけていました。(当時、瓦を出荷・運搬するのは、馬力です。)妻ちかは、俊次が常に製造・営業をしていたので、村の集まりや、消防活動など、男達が集まる所には、全て俊次の代わりに出向いていました。
もちろん、夜中、みんなが寝ている頃は、全身ススだらけになって俊次と2人で窯出し作業をしていました。
夜が明ける頃、朝風呂に入って、何食わぬ顔で、4〜5人の従業員がやって来るのを左手にウチワで、迎えていましたので、誰も、2人がドブネズミようになって必死で働く姿を見たことはありません。ただ、従業員たちは、夜中に、片付けてある仕事量を見て、2人が、ただの贅沢で朝風呂に入っているのではないことを知っていました。
また、昭和15年頃になると、小学生の息子達も、何かと手伝ってくれるようになっていたのです。近くの文殊さんのお祭りは、冬の寒い時、2回あり、何キロにもわたってお参りの行列が出来ていたのですが、次男・茂男は、機転を利かし、従業員のおっちゃん達の協力を得て、事前にたくさんのコタツの燃料(炭団=タドン)を作ってもらい、お参りの行列の人達に売っては、ささやかな売上げ貢献をしていました。
昭和16年(1941年)は、日本軍のパールハーバー攻撃の年で、日本が戦争に邁進していく事になる訳ですが、俊次は徴兵されず、また初めから、「そんな戦争に日本が勝てる訳がない!」と、確信していたので、ひたすら、戦争に巻き込まれないよう、静かにコツコツと、商売に励みました。
1941年(昭和16年)真珠湾攻撃を境に、日本国内でも本格的に戦争体制の雰囲気が高まり、神崎村の田舎でも、お祭り事など、全て取りやめになってしまいました。
これにはもう、田舎少年たちは、とうてい納得出来ません!11才で、初めて祭り屋台に乗せてもらえる事になっていた次男・シゲオたちは、この重大な知らせを聞いた日、小学校の勤労奉仕として麦刈りを命じられて、みんな手にカマを持って、列になって畑へ移動していました。
祭り屋台に載って太鼓をたたく晴れの日を、指折り数えて待っていたシゲオ・・・、どうあっても腹のムシが収まりません!その他、同じくムカついている同じ村の男子に合図して、先生の目を盗んで6人が列を離れ、村の屋台庫へ直行です。
当時のゴン太(悪ガキ)は、少々の理性と判断力と少しの屁理屈を持ち合わせていたので、さすがに村の屋台をどうのこうのという気は、全員全く持ち合わせていませんでしたが、・・・でも、やっちゃいました!
たまたま6人全員が手にしていた麦刈り用のカマで、太鼓の革を破ってしまいました。だって、その時は、今度その太鼓が使える日が来る事なんか、考えられなかったらしいのです。
シゲオは、お察しの通り、先生が手を焼く悪ガキのゴン太くれで、不器用で、あんまりカッコいい事はできませんでしたが、学業で世界が広がったり、知識が増えたり、それで良い点がとれることが心地よく、勉強するのは大好きでした。 2才上の兄・茂の宿題は、いつもおやつ(といっても粗末な食べ物)と引き換えに、シゲオがしていました。
俊次は、シゲオに、職人としては不向きながら家業を継がせたかったのです。渾身の自分たちの商売の後継は、シゲオだと早い段階から確信していました。 そして長男・茂は、工業専門学校への進学することが、その適正から言っても必要だと考えていましたので、茂は、6年生になるやすぐに、進学したい者が特別に勉強するコースに加わりました。 しかし、前述の通り、2才年少のシゲオが補わないといけない茂の学力では、6年生後半で進学コースから脱落してしまいました。
当時は、小学校でも、勤労奉仕がどんどん増えて、勤労奉仕の内容が成績となっていった時代です。
学業が出来ない事は、大した事ではありませんでした。 逆に、公明正大なる裁判官にあこがれ、純粋に志し、早く法律の勉強ができるようになりたかったシゲオは、”学業を教えない学校”に対し、不満のマグマがたまっていきました。
昭和17年、シゲオ6年生の春、師範学校を出たばかりで就任された若い担任・山口先生はシゲオに、旧制姫路中学へ進学の準備を始めるように言われました。同じ学年で、シゲオと西村君の2人は、きっと行けるから・・・と、おっしゃるのです。
シゲオ、天にも昇る嬉しさの反面、自分が進学して家業とは関係のない職業に就いたり、軍の幼年学校に進んだりする事を父・俊次が嫌っているのを知っていました。
「進学したいけど、お父ちゃんが、ウン言うてくれへんねん。先生から言うてぇな。」と言うのです。そこで、山口先生は、シゲオ宅へ家庭訪問し、父・俊次を説得する事になりました。
昭和17年初夏、シゲオ小学校6年生。師範学校を卒業後間もない、新任の山口茂先生は、白い半袖シャツに白いズボン姿で、シゲオの進学を説得する為に、俊次に会いに家庭訪問に来られました。
とは言え、いつものように俊次は、作業着で窯の付近で仕事を続けたまま手を休める事もなく、山口先生のおっしゃる事を聞くありさまです。
シゲオは、山口先生が自転車で小学校を出発する時点から、付かず離れず後を追いかけ、先生が自分の家に到着すると、子ザルのように、チョロチョロしながら、それでも離れて2人の会話を固唾を飲んで聞いていました。
「先生、がんばれ! お父ちゃんが、なんとか折れてウンと言うてくれへんかなぁ〜」
山口先生は、俊次が作業に動く後を追い掛けながら、「シゲオなら必ず姫路中学に合格すると保証できる。進学すればシゲオが好きな勉強もできるし、優秀な成績を納める事も十分考えられる。」・・・などと説明していました。 でも、俊次は、「この子が優秀な成績やとして、立派な軍人や軍の技術者になったって、それがなんぼのもんですか?」と、頑として聞き入れようとしません。
シゲオは、法律を勉強して大人になったら裁判官になるという夢はありましたが、子供ながらに、優秀な男子が、陸軍幼年学校や予科練へと進む事を「カッコいい」と思う気持ちもありましたし、進学後にたどるコースは軽く想像できました。 この時、真珠湾攻撃の開戦から2年目。俊次にもシゲオにも、進学することは、いずれ軍隊や戦争に深く関わっていくことになることを意味していたのです。
山口先生は、進学者の為の補講が始まってもまだ、俊次やちかへ何度も説得して下さいましたが、シゲオの進学は許されませんでした。
・・・、シゲオ、小さくグレました。
今では想像もつかない事ですが、シゲオが6年生の頃、進学者用の特別な時間でない限り、小学校でも、畑仕事や薪拾いなどの作業ばかりで、作業の効率や善し悪しで成績をつけられたと言います。そんな作業は、ちっとも性に合わないシゲオ、好きな勉強もしない学校では、野生児のチョー悪ガキとなり、山口先生をはじめ、先生方をホトホト手こずらせたようです。
それでもシゲオ、小学校の卒業式の日には、負けん気の強い母ちかに、学年で唯一、イッチョーラの学生服を着せてもらい、朝から態度 神妙にして、言葉少なし。「蛍のひかり」を歌う頃には、両親と山口先生への感謝の気持ちで胸がいっぱい! 若干12歳、恥ずかしながら、・・・滝のような涙で歌えなかったのです。
学年で唯一のイッチョーラと言うのも、その頃は、卒業式と言えど、子供の晴れの日に、少々まともな服装をさせるのもままならないほどの、物資不足状態でした。
俊次とちかの商売にも、戦争は影響します。開戦の頃は、どんどん瓦を焼いては売っていた時勢はすぐに終わりました。1基から始めた土窯はもう1基増設し、2基となっていましたが、戦況の悪化と共に瓦の需要などなくなり、俊次・ちかも米や畑仕事をする事が増えてきました。
・・・ 後日談ではありますが ・・・、
この約55年後、平成13年、弊社は、姫路市内某所の”山口様”から、直接、古民家の屋根再生工事のご依頼を受けました。
どんなご縁かもわからず、担当者がお伺いするのに、たまたま筆者も同行しました。
ひと通りの話が終わった頃、ご老齢ながら 凛とされたお施主様が、
「松岡の瓦屋さんと言うたら、もとは”馬車道”の東側で瓦しよったったんでしょ?
あのヘン、昔は”田原村”いいましてな。
私はね、教師しておりましてな。 まだ若い時分、あの瓦屋さんに何べんも家庭訪問に行きましたがな。
今は社長さんかな、いゃ〜もう引退しとってやろか?
シゲオ君ですやろ?
あの子ともう一人、西村君って2人が、よ〜ぅ 勉強ができましてな。
勉強させたげたい思ぅて私も何回も 瓦屋さんの現場まで入って話しましたがな。
シゲオ君は、(学校へ)行かせてもらえませんでしたけどな〜。
あんた方ぁ、想像もつきまへんやろ。大むかし、そんな時代ですわ。
アタマがエエ子やったというのと、瓦屋さんしとってやというのは、
私もずっと 記憶に残っておりましたンや。ほんで、このたび、ウチの屋根の工事するンやったらお願いしよう 思いましたンや。」
とおっしゃるのです。
・・・あぁ、この方が・・・、山口茂先生だ・・・。
不思議なご縁で、偶然その場に居合わせた筆者には、55年くらいの歴史がみごとにつながり、ジンとなりました。
ちょうどその時、シゲオ(松岡茂男)は、手術を控えて入院中で、山口先生にすぐにご挨拶に馳せ参じる事は
できませんでしたが、山口先生の言葉を知った時、
シゲオの その後の人生も気にかけ、覚えて下さっていたこと、
その昔、ゴン太で、先生をてこずらせた事は一切触れず、今、屋根のお仕事を任せて下さる事 に感動で、
またも涙ナミダ・・・で言葉にならなかったのでありました。
。
旧制中学への進学を阻まれたシゲオは、小学校を卒業後、当時”尋常高等小学校”と呼ばれていたいわゆる中学校のような2年間の義務教育課程へ進みました。
・・・とは言っても、既に国家総動員だの学徒出陣だのというご時世で、「学校」が”学校”であるはずがありません。 はっきり言ってシゲオには、この2年間、”学校へ行く”というのは、 大嫌いな ”野良仕事” を意味していたのです。 そっちの方は、ほぼ毎日、終日さぼっては、村に巡回でやってくる本を独占しては徹底的に読み漁り、新聞で文字や文章を覚えました。 法律の本は巡回ではなかったので、勉強はできませんでしたが、シゲオは、日本史や経済に関係した本が大好きで、その内容は、すぐに暗記できるほどスルスルと頭に入りました。
学校で勉強させてもらえなかった事については、どこに持って行きようもない不条理を感じていたシゲオでしたが、シゲオと同じく旧制中学に合格できると山口先生に言われて進学した西村君は、旧制姫路中学2年間の後、陸軍幼年学校へ進んで軍隊の集団生活が始まっていたそうです。
14歳や15歳くらいのまだ子供に、”優秀”ということで、”人間魚雷”や”特 攻”へのレールを敷いていたのが、時代の現実なのでした。
「家業を継がせたいでの学校へはやらせない」という俊次の考えは、そこだけをとると、親の身勝手で子供から教育の機会を取り上げたかのようでもありますが、俊次自身は、義務教育以上の教育を受け、大企業に勤務した経験を持ち、開戦当初から「アメリカ相手の戦争に勝てる訳がない」と思い込んでいたことからしても、シゲオを”戦争”という時代から、出来る限り無縁のところに置いておきたかったのかったのかもしれないと筆者には思えてなりません。
俊次とちかは、自作の田畑がありましたから、食料に困窮することはありませんでした。瓦をどんどん製造するということはなくなっていましたが、瓦に変わり、バンコ(bancoボルトガル語由来)と呼ばれる温熱容器を製造したり、家庭用燃料としての炭を売ったりして戦禍をしのいでいました。
昭和15年8月15日正午から始まった玉音放送の際、国民に起立を求める最初のアナウンスがある頃には、内容を覚悟をしていた俊次は、ラジオが聞こえないどこかへ行ってしまいました。わかってはいたものの、さすがに、”敗戦”を突き付けられるのは、衝撃・屈辱と不安が入り混じり、拝聴したくなかったのでしょう。
日頃から俊次の戦争に対する考えを聞いていた家族も、村人もみんな、ショックで信じられない、信じたくない。という思いでした。
・・・ただ一人、シゲオを除いて。
その日は、シゲオ15歳になったばかりのアッ暑い日。
「待てよ。日本の国、こんな、年寄り・女・子供しかおらへん状態で、今残っておるボクらがどないかせんとあかんやろ。そうやで、ボクらの時代になるんや!」と、ひとり、ものすごいチャンスを感じて秘めます。そして、その日のうちに、母ちかに、「瓦の炉はいつでもちゃんと動くんか?これからは瓦も徐々に売れるやろぅから、炉がちゃんと動くように準備しとかなあかん。」と口走っていました。
それを聞いたちか、その時は長女ミチコも3歳になっており、3男1女を抱えたお母ちゃんは、ハッとし、何年か前の、やる気マンマン・突撃モードに気持ちを切り替えたのでありました。
余談ではありますが・・・、
シゲオの同級生の西村君は、終戦の年、国内6か所に設置されていた陸軍幼年学校の、大阪(南河内市)に4月に配属されて、
日本軍の食料の後方支援(物資運搬)の任に就くべく、陸軍幼年兵としての集団生活を送っていたそうです。
8月15日の玉声放送の後、8月16日に堺市に敵上陸の噂があり、幼年兵が捕虜とされないよう早く解放しようと、教官らは、どさくさ状態で、親元へ返そうとしました。
後のドラマなどでは、女子や子供に対しても厳しい態度をとる日本兵が描かれる事もありますが、西村君によると、教官からの指導や注意はいつも穏やかで、暴力や罵声などなかったのでした。
子供を郷里に残してきた軍人も多く、教官にとって、自らの子らと同世代の幼年兵は不憫であり、15・6才の幼年兵にとって教官は父親のような存在でした。この時の軍人教官らの対応も極めて人間的です。)
8月16日には「堺へ敵上陸」の噂がデマだとわかり、8月17日に「戻り号令」が発せられ、改めて8月18日「解散命令」を受けて西村君は無傷で故郷へ帰ることができました。
昭和20年8月15日敗戦の時、15歳になったばかりのシゲオは。 義務教育期間も、とうに終わり、いちおう、”家業を手伝っている”という”たてまえ”でした。
2つ年上の兄・茂は、ずっと農作業や家畜の世話をしつつ、俊次の瓦製造の現場でまじめに手伝いをしていましたが、シゲオは、農作業や現場での作業は極めて適性がなく、”家業を手伝っている”と言っても、店番をしつつ、本や新聞を見たり、もめ事に首を突っ込んだり、まぁ言うと、”事務方”として客観的に言うと、”フラフラしていた”と本人も認めています。
茂男は敗戦と同時に、「東京へ行って夜学に通うんだ!」という強い意志を持っており、そんな事を両親に相談しても反対される事は判っていたので、「とりあえず家出だ!」と、ひとり心に秘め、機会を狙っていました。
暑かった夏が終わり、10月になると、シゲオが店番で密かに”貯めていた”(という表現が正しいかどうかは別として)お金が約5,000円に達していました。
(シゲオとしては、旅費と学費、就職までの東京での滞在費としては十分な額という判断でした)
・・・家出決行! です。軍資金と着替えを入れた鞄一つで、「良くて次の正月、もしかしたら数年は帰って来ないかもしれない。落ち着いてから家に手紙を書こう。」と、心に決め、シゲオは、誰にも何も言わず、播但線に乗りました。
姫路駅から大阪駅まで3時間、当時、東京駅までは最短でも12時間。
汽車の中では座れる事もありましたが、各駅に着くごとに、満員乗車の大量の人の動きがあり、立ったり座ったり、脇に避けたりの繰り返しです。
大阪を出た後、にぎりめしの駅弁を売っていたので、汽車を降りて買いました。座席に座れるほどの状態だったので、食べようと思いました。すると、短時間の間に同じ車両の人が一人ふたりと、立って違う車両に移動してしまうのです。両隣の人も、前の人も・・・・。 よっしゃ・好都合!!食べるぞ!と、にぎりめしを広げたとたん、汽車は長いトンネルに入り、シゲオ、しばらく視界が真っ暗になりました。 そしてトンネルを出ると、なんとにぎりめしは、ススと灰で真っ黒に、おまけに着ていた白シャツもススでグレーになっているではありませんか!
他の乗客は、ススだらけになる事を知っていて、窓を閉め切ってある車両に移動したのでありました。これまでの人生の中で「トンネルのお作法」など知らなかったシゲオ、にぎりめしは後回しにするとして、東京へ行くのにススけたシャツはまずいだろ・・・と、次の駅で降り、構内の蛇口でシャツを洗いました。
これまで大きな駅だと思っていた途中の各駅周辺は、いずれも、シゲオが想像できた範囲よりもずっと焼け野原の状態でした。
そして、生まれて初めての東京駅でシゲオが見たのもやはり、ズタズタの駅、焼け野原とバラックでした。
定職を見つけて、夜勉強できる法律の学校に通う というシンプルな思いだけで、なんのツテも情報もなく単身の上京は、無謀だったと思い知ります。
法律の専門学校の張り紙を見つけて、訪ねてみても実態がなかったり、入学金が法外に高すぎたり、第一、職がありません。もちろん仕事の好き嫌いを言える状況でないのはシゲオも覚悟はしていましたが、時は、敗戦後1か月少々の混乱期。 右も左もわからない地で、15歳の子供が、自分で生計を立てつつ夜学に通うという事の厳しさにシゲオは直面しました。
東京でまる3日、駅の構内とバラックの宿屋で寝泊まりして歩き回り、さっさと結論を出し、仕切り直しです。
「こりゃアカンわ!」・・・”大都会”と思っていた東京ですら想像以上にボロボロになっている今、法律なんか勉強できる状況ではない。橋やトンネル、ごっついビルを建てられる人間にならんとあかん!と、状況把握が出来た時、シゲオは、パッと目の前が開けたのでした。
汽車に飛び乗り、家路を急ぎました。
シゲオの家出は、のべ5日くらいで、”東京の状況を視てきた”という事になっていました。不在中の家では、そろそろ両親ともに心配するようになっていましたが、5日目に帰って来たので大した問題にはなりません。 家出だったとは、誰も思わなかったのでした。
俊次は、東京の様子を見てくることも社会勉強だ、という気持ちもありましたし、ちかも、シゲオが約5,000円という、当時の大金を持ち出したこと自体を責めるつもりはありません。 ただ、俊次は、ちかに、「この時期に、”東京の様子を見てくる”なんぞということは、ワシも思いつかんかった。あの子は、こんなとこで瓦を作るだけで終わる子やないか知れへん。」と言い、ちかも全く同じでした。
。
「日本の国土復興に役立つような建設の仕事をして、ひとはた揚げたい」・・・そんな新しい思い得て、シゲオは家に戻り、再起を誓いました。
家業では、7〜8人の従業員も加わり、瓦の製造が本格的に再開していましたが、シゲオは、”本心ココにあらず”ですので、製造現場にいても、自分で作業をすることはめったになく、人に、こうすればいいとやらせたり、ふっといなくなって、自分の興味のある事を始めたりする始末です。
ある時、炭を買いに来た同じ村の人が、”仕事で聞いた話”として、シゲオに、福井県の状況を教えてくれました。その要旨は、
敗戦直後の(昭和20年)9月の閣議決定で、福井市や敦賀市に4700戸の復興住宅が割当てられる予定。
その頃は、復興住宅と言ってもバラックのイメージでしたが、福井県は積雪地域で、バラックでは冬を越す事は過酷なので、一定の耐寒性・耐久性のある屋根・外壁を持つ住宅が必要。
敗戦後2カ月くらいという状況で、福井の方々は復興意欲旺盛で、積雪までにと凄い勢いで住宅建設をはじめ、復興に動いている。
・・・という内容でした。
シゲオには、福井に自分の人生のダイアモンドがザクザクところがっているような気がして、すぐに次なる家出の決行です。
東京への家出から戻って約1カ月後の11月、目指すは福井!、「建設屋に就職して、橋やトンネル、ごっついビルを建てるようになるんや!」・・・そんな気持ちで、またも身軽に家出と相成りました。もちろん誰にも告げず、今度の所持金は 約3,000円、汽車賃や当面の生活費には、困らない大金です。
瓦の製造の副産物としてできる炭は、戦時中も終戦直後も常に小売りしていましたので、実は家には、けっこうお金を置いありました。シゲオは、持ち出そうと思えばいつでも持ち出せる状況でした。3,000円と言えば、当時の平均的な月給額よりも高かったはずですが、それだけ持ち出しても、家族の生活や、商売の支払いには十分な現金が残っているのを確認して、拝借することにしたのです。
またも飛び乗った播但線。
今度は、姫路駅から大阪、米原へと人混みに押しつぶされながら汽車を乗り継ぎ、北陸本線へ。敦賀は通り越し、目指す福井駅までは1,120kmでした。
福井駅に着いた時は、あたりはうす暗くなりつつある頃でした。
北陸の11月半ばの夕刻は、初めてやってきたシゲオにとっては、兵庫県神崎郡田原村の家より思った以上に風が冷たく寒く感じられます。
しかし寒い地域が故に、冬の本格的な寒さまでに少しでも復興を急ぐ人々に、街全体の活気と迫力があり、若干15歳の男子は、駅舎の人混みを出て、武者ぶるいと寒さでブルっとなりました。
寒い地域で冬を越すのだから…と、家を出る前、父・俊次の小マシな冬用の上着を無断で拝借して、福井までの道中、汚れるという想定で裏返しに着用していたのですが、まずは、ヨレヨレながらも表側に直して、自分ながらにきちんと着用し直しました。
そして、家の近所のおっちゃんから教わって自分で書いた“履歴書”を、大きなカバンからポケットにそっと入れ直し、混沌とした初めての地を、暗くなる前にどこか建設現場とか会社を見つけたい!と、歩き始めました。
ワクワクのような好奇心だけで、自然と川に向かって南の方向へ歩を進めていました。復員兵や闇市のような街の様子にも心配や不安など全くありません。
シゲオは「ビルや橋を作る大きな会社」を探していた訳ではありせん。
自分の力を試させてもらえる建設屋さんはないかなぁと、歩いていると10分もたたないくらいで、貨物トラックの「…建設工業」という部分が目に入りました。
「わっ!これだ!!」と、そちらの方向に行くと、前田建設工業とペンキで書かれたトラックが1台あり、入口付近には自転車の他に、オートバイも1台あります。
「ボクはここで働くんやな!と確信して、玄関を入ると、その時は、中に3人の男の人がいて、谷口さんという1人の男性が「ボク?何か用事か?」と対応してくれました。
兵庫県から1人で福井市の復興地で仕事がしたいと履歴書を持ってやってきた少年に、谷口さんは多少驚いたものの、その時、復興のための工事現場では人手は大歓迎な状況だったので、即面接・即採用となりました。
面接で、シゲオは
両親は兵庫の田舎で田畑もあり瓦製造をしており、自分は次男坊で本当は裁判官になりたかったけど、進学の夢叶わず、戦後の焼け野原を知って、日本で橋やトンネルやビルを作る仕事をしたいと思った。そんな時に福井市の復興計画を知り、福井で一人前になりたいとやって来た。
と、ここまでは正直に、持参した履歴書と共に説明。すると、谷口さんは、差し出した書類に自筆で記入するよう指示します。
その書類は、労働者プロフィールで、両親の名前や実家の住所、最終学歴まで記入する必要がありました。
…シゲオ、ほぼ全て、臆することなくスラスラと記入しましたが、「最終学歴」のところで、たくさんの事を考え、0.5秒くらい手が止まります。
…小学校しか卒業していないけど、正直に書くと採用してもらえないよな~。でも“さいしゅうがくれき”という漢字も読めるし、意味も分かる。なんてったってボクは、姫路中学へも余裕で行けるくらいの学力はあるって、山口先生も言ってたし、そのへんの中学卒くらいの事は、自分で身につけてるしな~…と、
0.5秒の間、思いがかけめぐり、さすがに名門:姫路中学の名を書くのは遠慮して、姫路中学の近くいある「白鷺中学・卒」と、えーいっ!とウソを書いちゃったのです。
0.5秒の間も含め、終始シゲオの所作を見ていた谷口さんは、シゲオの受答え、持参の履歴書と同じくバランスのとれた文字の配列と、書類記入の速さを高く評価しており、「白鷺中学卒」は何か事情がある方便だろ! と見破っていました。
当時の義務教育制度は変更とか改正の連続で、当事者であった若者たちが翻弄された時代です。生年月日からして15歳のシゲオが、11月時点で旧制中学を卒業しているとは考えられないからです。
それでも谷口さんは、シゲオの好奇心に満ちた黒い大きな目がキラキラ輝いているのに大きな潜在力を感じ、工事現場の作業員ではなく、現場管理職である自分の部下として採用する!と即答です。
30分ほどのやり取りの間に、外は暗くなり、事務所には次々と工事現場からの作業者のような人達が入っくる中、谷口さんは、そのうちの1人にシゲオを紹介して、その日の夕食と寝る場所を確保してくれ、翌日朝7時出社するようにシゲオに命じました。
朝から何も食べておらず、その日は駅舎とかどこかで野宿も覚悟していたシゲオにとっては思いもよらず、とても有難いことでした。
「この会社、どんな会社か知らんけど、食料がない時に、ボクみたいな“よそモン”の若造にもちゃんと接してくれてや。ここで一生仕事しようって思うもん!」
と、その時、シゲオは「人を雇う」という事の大切な心得を学ぶのです。
翌日、7時に出社すると、シゲオは谷口さんの運転するオートバイの後ろに乗せてもらい、3か所の工事現場に移動し、同行しました。
当時としてはまだ見たこともなかったユンボやショベルのような建設機械が置いてあったり、道路整備工事の様子を目のあたりにして、シゲオはワクワクし、じっと黙って谷口さんが、現場の人と話す内容を聞きました。
それらが終わると、ひとまず事務所に戻り、シゲオの寝る場所として事務所の隣接の小さな建物の階段の横にある1畳もないほどのスペースを指定されました。家賃は不要でしたが、食事はもちろん自分で手当しなくてはなりません。
「とりあえず最初の賃金は1週間後なので、はやく配給米の手続きをとりなさい。それまでの飯は闇市で買うしかないよ。最初の給金日までは、私が言う現場に付いて来なさい。それ以外は事務所の雑務でも使い走りでも何でもやりなさい。」
「はい!よろしくお願いします。」と、元気いっぱい頭を下げたものの、シゲオが少々気になる事がひとつ。
・・・「配給米の手続き??」
今の日本では想像もつきませんが、戦時中の食料不足は、敗戦直後であった当時はさらに深刻化して、公務員ですら餓死者がいたほどで、主食であるコメは市町村が管轄する配給制でした。
一家に1冊、米穀(配給)通帳が配られ、1日あたりの米の配給量が記入されて米の取引自体を統制されていたのです。そして米穀通帳は、今で言う運転免許証やマイナカードのような身分証明の役割もありました。
シゲオは、日ごろ自作農家の子として、戦時中も終戦後も食糧調達についてはさして気にしておらず、家から3000円という大金を持ち出していたので、福井で就職先さえ決まれば、自分1人食うことくらいは何とかなると高をくくっていたのです。
家を出る前に、履歴書についていろいろ教えてくれた近所のおっちゃんは、まさかシゲオが福井県で就職を考えているとは思いもよらなかったので、米穀通帳の事まで話は及びませんでした
また、子供の頃からこれまでの人生で、お仕置きとか両親への反発とかで数日間、食事ぬきでいた経験に自信を持っていたので、シゲオには、多少の空腹や米調達に対する心配はありませんでした。
しかしです!闇市などまともに値段を調べたことがなかったシゲオは、福井の闇米の価格を見て回り、驚きます。「た!たっ高いっ‼」
贅沢など思ってもいませんが、闇米だけで、全ての稼ぎを費やしても食べる量には足りません。食べない訳にいきませんから、すぐに、谷口さんに言われた通り、故郷の村役場へ、米穀通帳を発行してもらうよう郵便を送りました。
一般的な家庭用の米穀通帳は、通常一家に1冊とされており、松岡俊次の家では、俊次・ちか夫婦とシゲオを含む4人の子供の名前と米の配給量が記載されているものです。
シゲオからの米穀通帳発行の依頼郵便を受け取った村役場の人は、俊次・ちかの家までやって来て、通常は15歳の子供だけに米穀通帳を発行する事などしないことを伝えました。そして、ちかに、これはどういう事情かと、尋ねました。・
これをさかのぼること、5日前、ちかは、シゲオが残したメモ書き:「ひとはた上げて戻りますのでしばらく家出致します候」を見つけて以来、どこへ行ったやら検討もつかず、敗戦後の治安の悪い世の中で、死んでしまったりしないていないか、実は俊次と共に、夜も眠れないほど心配していたのです。
そこへやって来た村役場の人は、本当に良い知らせを持ってきたのでありました。
シゲオの差出住所もわかり、元気で生存を確認すると、筋金入りの両親:俊次・ちかは、毅然と、「絶対に米穀通帳を発行しないでください。この子は家出中なので、もし発行すると戻って来ませんから。」と即答です。
福井市にいたシゲオは、故郷の村役場への郵便事情もわからず、まずは1週間後の給金日まで、家から持ち出したお金でなんとか食いつなごうと待つ計画でした。仕事では、各工事現場へお使いに自転車で走ったり、事務所で雑務と掃除の傍ら、時々谷口さんに同行させてもらって、本人は、「今回の家出はうまくいった💛少しずつ仕事を覚えて、立派な建設屋になるぞ!」と、満足かつ充実していました。
気になるのは、米穀通帳・・・。
故郷の村役場へ発行依頼をして2週間以上経った頃、待ちに待ったシゲオの元に届いた故郷・田原村 村役場からの書面は、米穀通帳ではなく、「15歳の家出中の子供に、両親の許可もなく米穀通帳を発行しません」という内容のものでした。
…シゲオ、まっ昼間というのに、あたりが真っ暗になり、身体から力が抜けていきました。
「ああ、またお父ちゃんとお母ちゃんにボクの夢を切り取られてしもうた…。
配給米ですら食べられないんだったら、生きていけない…。」
そして3秒くらいの間、15歳の少年シゲオの頭の中で、様々な思いがめぐります。
「1人前になるとか、ひとはた上げると言ってココまでやってきたのも、所詮お父ちゃんの上着や家のお金を持ち出して今こうしているんやなぁ…。
お父ちゃんもボクが死ぬか生きるか困るのわかってて配給米を止めたんや。
それほどボクに帰ってきてほしいんやわなぁ…。家にはアニキも、三郎もいるのに、ボクがおらんとあかんってことか…。」
その日の夕方シゲオは、事務所に戻って来た谷口さんに、配給米を受け取れない事情を説明し、お世話になったお礼と暇乞いをしました。
谷口さんは、シゲオが両親に無断で家出をしてきたとは思っていなかったので、
「それでは仕方ない。残念だけれど、早くご両親の元に帰ってあげなさい。」と快諾してれました。
師走12月になって風の冷たい中、シゲオは翌日には福井駅から故郷までの列車に乗りました。満員の列車に立って揺られながらシゲオは思います。
結局、3週間程度の福井市での就職で、またしても、夢破れて山河あり!
気分的には荒涼とした感じでしたが、厳しい社会状況下の限られた条件の中で、自分なりに挑戦したという少しだけの充実感と 戦後も両親が存命で庇護されている自分という存在の“有り難さ”を感じる素直さも残っており、この運命を受け止めて自分は、さてこれから、どう生きていってやろうか!と、前向きに考えていたのです。
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後日談ではありますが、
シゲオは、福井で、瞬間でシゲオを評価し、真摯に対応してくれた谷口さんの仕事ぶりは忘れたことがなく、あの事務所は今頃どうなっているかと気になっていました。インターネットなど、まだない頃ですから、戦後の復興事業が一段落したら、あの事務所もなくなっているかもなぁ…。という思いもありました。
あれから、20年くらいが過ぎた頃でしょうか…。
公開株式市場の情報で、あの福井市にあった事務所とは、準大手ゼネコンの、株式会社 熊谷組の発祥の地であることを知り、谷口さんは、戦後の㈱熊谷組の施工力を支えた立派な方だったんだと確信しました。
人生の出発点で、シゲオに大きな影響を与えた、人にやさしく温かい、頭脳明晰で即断即決、仕事のできる頼れる上司だったと改めて振り返り、懐かしく思いました。
12月、2度目の“覚悟の家出”からシゲオは、しれっ~と家に戻りました。
そろそろ戻ってくる頃と、実は首を長くして待っていた両親は、嬉しそうな素振りも見せずシゲオには何も言わず、何も聞きません。
瓦製造は、炉の火入れ・火止め、いぶし工程などの作業の都合、目と手が離せない時間帯がバラバラで、もともと家族全員そろってご飯を食べる事はほとんどないものですから、シゲオはしれーっと家でご飯を食べ、店に出たり、瓦製造の現場で作業をし始めました。
そうして迎えた1946年正月、さすがに、炉の火も止めて正月休みに、父・俊次は、次男シゲオだけを座らせて、言いました。
「村でも、何人も徴兵されて戦死された若い衆がおられる中で、ワシら家族は、みんな無事で、こうして正月を迎えられとる。
ワシら夫婦が田んぼと瓦を作って、今までなんとかやって来れたのは、この地のおかげさんや。
商売はじめに、お寺さんに助けてもろうて、一帯の大地から土をもろうて瓦を作りよるし、山からは燃料の松葉を使わせてもらいよる。
お前が、外へ出てやりたい事があるのはようわかるが、戦争で命を取られずにすんだ事に感謝して、この生業でここから社会に恩返しせい。」
そばに、母ちか もいて黙って聞いています。
シゲオも黙って拝聴し、静かに退散。
思う所は数々あれど、まあ、親の庇護を離れてトンチンカンな事をするより、進学は叶わなかったけど、親の敷いたレールで、人より早く、ひとはた上げる道を探すしかないわな~という結論に達しました。
それからは、商売の方で、俊次とちかは、監視的な立場になり、長男とシゲオで瓦屋の工場と店を仕切るようになりました。
長男は現場で、シゲオが家出中も、父・俊次の指示に従い、毎日コツコツ工場で同じ作業をまじめに繰り返しているタイプの人で、一方シゲオは、瓦づくりの現場で原料の混錬方法や、炉内の温度管理やいぶし工程のコツなど、“窯業“としての要領を押さえる傍ら、昼間は店にいる事も多く、帳簿管理、資金繰り、従業員の雇入れなど、1人でやっていました。
ですから、シゲオが店の資金繰りをするようになってからは、長男もシゲオも、給金という形で、毎月対価を得て蓄えるようになりました。
昼間、店にいることが多いと、“松岡瓦”と呼ばれていた俊次の店は、その当時、神崎郡田原村近くにいくつもあった瓦屋さんの旦那衆のたまり場になっていましたから、シゲオは好むと好まざるとに関わらず、色々な情報センターとか相談所みたいになる訳です。
まだ若輩のシゲオは、年上の先輩方から結構可愛がられるタイプで、その好奇心も相まって、新しい社会制度や、製造の知識、株や法律の事など、たくさんの事を教えてもらえました。
ある時は、相談事から始まって、この村で瓦組合を作ろう!という話になり、シゲオが(まだ未成年なのに)事務局長として、原材料仕入れの一括化や、万が一の互助制度を検討した事もありました。(目指したところは崇高でしたが、設立前に立ち消えになりました!)
そんな中で、(近くのどちらの瓦屋も看板もないような個人商店だったのですが)シゲオは、出資者を募って会社組織にすれば、銀行からお金を借りたり、設備投資したりして、従業員をたくさん雇える。瓦屋も機械を使って、たくさんの従業員でやれば、もっとたくさん作れるだろうし、新しい住宅が建つ時に役に立つのに…。という思いを強くしていきました。
それとは別に1946年10月のGHQの意向を取り入れた第2次農地改革が奏功し、1947年3月ごろまで、全国的に農地解放が進み、シゲオの住む兵庫県神崎郡田原村でも、小作だった農家の方々が農地を所有するという動きがあちこちで見受けられました。
俊次自身は庄屋の家系で、先祖伝来の田畑を田原村付近に所有していましたので、農地解放で土地所有することに積極的ではありませんでしたが、「これからは、それぞれの家で田畑や土地を所有する時代だな。」と実感するようになります。三男坊の俊次でも親から田畑を譲り受け、そこで生活しているように、俊次の息子たちにも、その田畑を分け与えなければならないと考えたのです。
そこで、家と瓦の工場がある土地を長男に、シゲオには少し南側へ離れた船津村にある瓦の製品置き場として使っていた土地を譲ると、俊次は宣言しました。
1947年秋、長男もシゲオも三男もまだ成人していませんでしたので、登記などはしませんでしたが、17歳になって間もないシゲオは、父の土地譲渡宣言以来、着々と会社設立の構想を広めていきます。
折しも、近所の瓦屋の旦那衆との組合設立や会社設立について、我が事のように村の司法書士さんに相談し、法的な事を細かく質問し教えてもらっていたシゲオは、自分で瓦製造販売の会社を設立しようと思っていたのです。
いや、それだけでなく、その次の事も次の次の事もと、いろいろな事ができそうだ💛!と、その時既に構想はどんどんふくらんでいました。
こうして、準備万端整えたシゲオは、1949年2月24日、父から譲り受けた神崎郡船津村(現在の姫路市船津町)の地に、神崎製瓦合資会社を設立しました。
この頃、個人商店から会社組織に変更したり、新しく設立された会社形態として
“合資会社”は斬新な感覚で受け止められていたようです。また、父・俊次が始めた通称:松岡瓦と呼ばれていた個人経営店は長男がまじめに続けていく予定でしたので、俊次とも相談し、“松岡瓦”という名称は使わず、姫路城に献上の瓦として地元では誇りをもっていた“神崎瓦”の名を戴いた会社名としました。
松岡瓦産業株式会社の前身であります。
神崎製瓦合資会社(資本金180,000円) 業務内容:瓦の製造・販売
無限責任社員(株式会社で言う代表取締役):松岡俊次
有限責任社員( 〃 取締役):松岡茂男・松岡ちか
設立登記当時、茂男はまだ18歳で未成年であった為、創業者である俊次に法的に社長として名を連ねてもらう事にしましたが、瓦を焼成する炉の設置をはじめ、事務所などにかかった資本金180,000円は、全て松岡茂男が工面し、茂男がたった1人で実質経営する組織がスタートしたのです。
法人に名を連ねた両親:俊次とちかは、“金は出さないが口は出す”というタイプで、競走馬みたいに突っ走る茂男を、傍目から何かと心配し、用心しなさいと、茂男にとっては口うるさく感じられる事もありました。
しかし、やはりこうして若輩ながら自ら会社を設立し、いろいろチェレンジして試行錯誤できるのも、両親の七光り。進学できなくても這い上がるド根性を叩き込んで育てた両親のおかげ…。ド根性だけで、自分1人だけでは、ここまで出来んわな~。そんな事をしみじみ思うようになりました。
茂男が会社を設立した1949年頃でも既に、世の中の大きな会社は、みんな社章があり、社旗や看板、名刺にもそれが載っておりました。
自分の商売初めに「よし!ウチも社章っちゅうモンを作ったろ!」と思った時に、頭をよぎるのはやはり、俊次とちかの商売初め:まだ幼い自分たち兄弟はそっちのけで、窯から二人が、ススのついた瓦を大事に大事に1枚ずつ取り出し、服や顔がススだらけで、1枚ずつ瓦の表面を見極める光景でした。
歴史好きで近代歴史小説も読み漁り、財閥系の社章への憧れがあった茂男は、井桁のような形状の社章にしたいと思い、当時、瓦の焼成用の燃料に使用していた乾燥させた松葉を両親に見立てて掛け合わせ、中に瓦の文字を入れるデザインを考案しました。…創立者:松岡茂男の回心の作であります。
以来、戦後の復興で住宅の新築や、とりわけ1950年9月に淡路・阪神地区に上陸したジェーン台風での被害で、屋根瓦は造っても造っても足りない状態で、茂男は順調に業績を伸ばしていくことができました。
1956年6月には、兵庫県神崎郡福崎町が合併に伴い、新制町長・町議会議員選挙があり、松岡俊次は初代町議会議員に選出されましたので、その頃から神崎製瓦合資会社の代表者を退き、松岡茂男が就任しております。
1961年には、瓦屋根施工を開始し、社名を松岡瓦産業合資会社とします。
その後、会社設立や吸収合併を経て2004年に、松岡瓦産業株式会社 となりました。
昭和のはじめ、俊次とちかの2人で始めた“創業期ものがたり”は今、平成を超え、令和の時代にも、松岡瓦産業株式会社のむかし話として語り継がれています。
そして、創業の2人の姿を瞼に焼き付けた創立者が考案した社章:“松葉に瓦”は、多くの方々に助けられお世話になって今がある 松岡瓦産業株式会社の社章であります。
松岡瓦産業株式会社と共に、これからも末永く皆様にご愛顧賜りますよう社員一同お願い申し上げます。
完